2011年6月アーカイブ

スルマ ユガール Zulma Yugar の歌

Zulma Yugar さんはボリビアを代表する歌手です。国民栄誉賞を贈られるような、日本で言えば美空ひばり級の歌手です。
このCDを入手した経緯は覚えていません。おそらく、この写真に惹かれたものと思います。
すてきですね。この様な写真を残すことができた女性は、一生幸福なのではないかと思います。
帽子と飾りはボリビアの祭の衣装です。たしか、ユネスコ世界文化遺産になっているとの記憶があります。



Zulma Yugarさんを代表する歌は Piel Morena (ピエル モレナ 浅黒い肌)です。
このCD(TKF-CD-23)のトップも Piel Morena です。

愛する男が旅に出る、後朝の朝(きぬぎぬのあさ)の歌です。
でも、「浅黒い肌」のためにおこる苦労を心配するような、そんな気配が感じられる歌詞です。肌の色の黒いこと、出自がインディオであることは、南米の社会では決定的に不利になるようです。

「Piel Morena 浅黒い肌」とはどういう意味であるか、下の画だけでわかります。
平和を願う歌なのですね。気がつきませんでした。


En tu piel,  en mi piel   あなたの肌にも、私の肌にも
arrullara una cancion   ひとつの歌が 優しく響く
dejara un sol en tu lagrimas   あなたの涙に太陽を置いて行く
con un rocio de amor    霧のような愛と一緒に
con un rocio de amor    霧のような愛と一緒に
con un rocio de amor    霧のような愛と一緒に

En tu piel,  en mi piel    あなたの肌にも、私の肌にも
mis suenosse vuelven luz   私の夢が明るくよみがえる
tu piel morena es la lagrima   あなたの浅黒い肌は涙
que bana mi cielo azul   私の青空にふりそそぐ涙
que bana mi cielo azul   私の青空にふりそそぐ涙
que bana mi cielo azul   私の青空にふりそそぐ涙

las motagnas nevedas se van  雪をかぶった山が過ぎてゆく
y en ese pueblo tu sola esteras  あの村であなたは一人寂しく過ごしている
la luna llena de mi te hablas  満月が私のことをあなたに話すだろう
un sol aridiente mi canto tendras  私の歌が持つ燃えたぎるような太陽を
(se repetite)                                (繰り返し)

Llora el alba al partir  旅立ちの朝、夜明けが泣いている
llora el silencio otra vez  再び沈黙が泣き始める
dejo Bolivia en mi corazon  私の心の中にボリビアを置いて行く
siente morirse mi ser  私という存在がなくなっていくような気がしている
siente morirse mi ser  私という存在がなくなっていくような気がしている
siente morirse mi ser  私という存在がなくなっていくような気がしている

Pero en mi quedara  でも私の中に
dulces recuerdos de ayer  昔の想い出が残っている
tus ojos negros, tu lagrimas  あなたの黒い瞳も、 あなたの涙も
tu piel morena en mi piel   私に肌にあなたの浅黒い肌
tu piel morena en mi piel   私に肌にあなたの浅黒い肌
tu piel morena en mi piel   私に肌にあなたの浅黒い肌



この歌も上のCDに入っています。ケチュア語の歌です。
アルファベットの綴は、スペイン語的な発音記号となっています。

K'oly pankarita コリ パンカリータ   美しい花

Sumataki k'oly pankarita   美しい花のようなあなたのために
suyask tamja suma urunaka  これから楽しい日々が続く
jumamp nayampi nina naira あなたと私は燃える瞳を持っている
ma suma taki lurtesinani いい道を二人で作って行こう
jumamp nayampi nina naira
ma suma taki lurtensinani
ayayay fueguito k'oly pankarita  ああ、燃えるような美しい花よ
ayayay fueguito k'oly pankarita

Pa marajer suma Imillita  あれからもう二年経つ イミジータ
nta kutimpis kitirus munkati もう二度と人を愛することはない
sumat sumat savanakesina あなたは私に喧嘩しないでといった
amtasimay k'oly niwa naira
sumat sumat savanakesina
amtasimay k'oly niwa naira
ayayay fueguito k'oly pankarita 私はあの炎のような瞳を思い出す
ayayay fueguito k'oly pankarita
                                              (イミジータ:インディオの女の子)

ところで、彼女のセーターの模様に注目してください(バックの山はマチュピチュと思います)。
また上の Piel  Morena のタイトルバックの絵の左上、 Gの左に、模様のようなものがあります。
これ、模様ではなくて、タワンティンスーユ(インカ帝国)の旗です。

Wankar著 吉田秀穂訳 「Tawantinsuyu: Cinco siglos de guerra Qheswymara contra Espana 先住民族 インカの抵抗五百年史 タワンティンスーユの鬪い」の裏表紙の解説が適切と思いました。



(タワンティンスーユとはいわゆる「インカ帝国」のことで、ケスワイマラ人を中核とした複合民族国家であり、その領土は現在のエクアドル、ペルー、ボリビア、そして、チリ、アルゼンチンの北部におよんでいた。この旗は、(今から)5世紀前のスペインの植民地化以来、抑圧され、分断されてきた多数民族=ケスワイマラ民族の解放、そしてタワンティンスーユの再建、独立、国家形成をめざす著者達の運動のシンボルである。)

Savia Andina(アンデスの樹液)というグループ(コンフント)の Piel Morena がありました。バックの画像が素晴らしく(タワンティンスーユの旗がありました)気に入っていたのですが、削除されてしまいました。とても残念です。代わりに彼らの Piel Morena の演奏の動画を紹介しておきます。演奏のスタイルがわかるのではないかとおもいます。
削除されたものでは前半は主旋律をケーナが、後半はトヨス(大型のサンポーニャ(パンフルート))で演奏されていましたので少し違いますね。
Piel Morena は、タワンティンスーユの再興を目指す人々のシンボルの歌になっているのですね。

「大崎市医師会報に発表した文書」に置いておきました、「私はインディオ(Indio Soy)という歌」という文書も、是非合わせてお読み下さい。

(2014年2月10日追加)しばらくぶりにスルマ・ユガールさんのCDを聴いていて、気に入っていた曲を思い出しました。
Morenada Central 最高のモレナーダ。モレナーダはボリビアの踊りのリズムのことです。動画の冒頭の彼女の体の動きがそうだと思います。カーナバルの楽しい思い出が歌われています。(CDの歌と演奏の方がいいです。でも、楽しさが良く伝わってきます。)





CDの中で、「裂け目を広げながら」という歌と歌詞が印象に残っておりました。他の歌と違って、ただならぬ緊張感が気になりました。歌詞は以下のようなものです。YouTubeにはスルマ・ユガールさんの歌はありません。ギターの演奏がありました。



Llugue del sur  私は南からやってきた
con una ilusion  ある夢を持って
sembrar para consechar  いい収穫ができるように種をまく
atras deje mi pueblieto gris
motagnas y soledad  山に囲まれ寂しげな、私の灰色の村をあとにして。

ahola un pahuichi en la selva orienyal  今では東部のジャングルにボロ家住まい。
peor que en la canaveral  さとうきび畑の方がまし。
un obrero de la cana soy  私はサトウキビの労働者。
travajo de sol a slo  日給じゃ食べることも出来ない
el jornal no da para comer
y el calor me va a matar  暑くて死にそうだ。

Esta es la vida de muchos zafreros  これが鉱夫たちの人生
solo frustracion  あるのは失望ばかり。
venir desde tan lejos  あんなに遠くからやって来て
para encontrar la somra del dolor  見つけたのは苦悩の影ばかり
abriendo becha en la horizonte  地平線に裂け目を広げながら
tengo de buscar lus para que alumbvre  照らしてくれる光を探さなきゃならない。
la nueva senda que deba tomar 取るべき新しい道を

Quisiera encontatrar le agua clara que calme mi sed  私の乾きをいやす澄みわたった水を見つけたい
sed de vivre, con la justica, tambien de mi lao entonces si 公平に生きたいという渇きを満たしたい
entonare coplas al vino y al amor だからそう
recorrere los caminos 私はワインと愛に捧げて歌う
abriendo brecha sin descansar  休むことなく裂け目を広げながら、
pare que juntos un dia  数々の道を巡っていく
esta pobresa poder desterrar いつの日かみんな一緒に
この貧しさを捨てるため。
(se repite la seguenda parte )
(西村秀人訳、CDの解説より)

Los Kjarkas ロス カールカス !

昨日、SNSよりメール。 ロス カールカスの大阪公演が無事終わったと。
エッ、今年もロス カールカスの来日公演があったの?
私は一昨年('09年)6月、蒲郡市と神奈川県の松田町と追っかけをし、2回の公演を聴きました。

ロスカールカスとはボリビアのフォルクローレグループです。
彼らの人気は南米全体、ヨーロッパにまで広がっております。
フォルクローレを土台に、ロック調の力強さ、激しさを持ち込んだところに多くの若者の支持を得たものとおもいます。
年代的にもスタートは日本のグループサウンズとほぼ一致します。

彼らが知られるようになった大ヒット曲はWayayay(ワイヤイヤイ)でした。
「泣きながら」は彼らのオリジナルの作曲ですが、他のグループに換骨奪胎され「ランダバ」として世界的にヒットしてしまいました。

このグループの作曲、演奏は多面的、多彩です。
白血病で夭逝したUlises Hermosaの作曲による叙情的な曲、Gonzalo Hermosaの作曲によるロック調なもの、伝統的な saya、tobas のリズムによる限りなく力強いもの(踊りが加わります)、ケチュア語の力強い歌(munasuq'chay)、などさまざまです。日本の歌謡曲調のものもあります(ave de cristal)。

私がとても気に入っているものは、Elmer Hermosa(エルメール エルモッサ)の歌です。
うまい、カッコイイーです。

YouTube探して紹介しようとしましたが、撮影、録音が下手な物が多いのには困りました。
彼らの30周年の記念コンサートのビデオを入手しましたが、これも下手どころかかなりひどい。
せっかくいい演奏グループなのに。
CDは大丈夫です。
私の好きな曲は、 Al final, Fria,  Necesito un amor, Por un mundo nuevo など。



前列中央がリーダーのGonzalo Hermosa, 後列右がvocal の Elmer Hermosa。
後列左は日本人の宍戸 誠さんです。チャランゴというフォルクローレ演奏に欠かせない、とても重要な楽器を演奏しています。神奈川県足柄上郡松田町の出身です。Los Kjarkasの日本公演ツアーには必ず松田町がはいります。


恋の「終局」をこんな風に歌っちゃうなんて。タキラリのリズムです。

Ves ?              わかったかい
llegamos al final,     ぼくたちは終局に着いた
al final des este amor     ぼくが一生かけて
que yo quise cuidar       守ろうとしたこの愛の終局に
toda una vida entera.
Todo,                           すべて
todo cuanto se dio         捧げられたすべて
por salvar este amor      残ったほんの少しだけでも
de lo poco que queda.    この愛を救おうとして
ah, ah.........                  ああ、ああ・・・・・・

Este amor que al final     この愛を 最後には
lograras olvidar              君は忘れる事が出来るであろう
en cambio yo jamas,       それにひきかえ僕の方は
solo cuando yo mouera.(bis) 死んだらようやく忘れられる。(繰り返し)

El imtentar, el regresar    もとに戻ろうとすることは
son los labios que no he de besar,   もう触れる事の出来ない唇
sera volver a remover      またかき回す事
la cenizas del fuego de ayer.(bis) きのうの燃え尽きた灰を 。(繰り返し)




Munasquechay(愛してる) というタイトルをはじめ、ケチュア語(インカ帝国の公用語だった)の歌です。
この演奏のスタイルは、アウトクトナ音楽(musica auotctona)と呼ばれるもので、農村部に残っている、収穫を祈願する、土着の古いものをいいます。
しかし、Los Kjarkas の Munasquechay は随分ヨーロッパスタイルなんだな、と思います。
若い女性の華やかな衣装、帽子、飾りに御注目下さい。ボリビア独特のものと思いますが、実際の祭の衣装というよりは、プロモーションビデオ撮影用なのではないだろうか。




私のワクチン接種歴、感染歴

私は昭和25年、1950年生4月生まれです。
私のワクチン接種歴を思い出して記してみます。
かなり記憶が消えていると思いますが。
(少しずつ修正していきます。)
ワクチンの注射はイヤでした。

種痘: 小学校入学前だったと思います。左上腕に跡があります。副作用が出なくてよかった。
小学1、2年生のころのワクチンの注射があったように思いますが何だか思い出せません。
しょう紅熱のワクチンでないかとおもいます。
ツ反とBCGがありました。
いつもツ反が陰性で、BCGがイヤでした。
小学校の低学年の頃、腸チフス、パラチフスのワクチン注射があったような記憶があります。
すぐ、無くなったような。
5、6年生のころ、インフルエンザワクチン接種があったように記憶しております。
高校生。大学生になってかワクチン接種はありませんでした。
この程度しか思い出せません。

これをみると、私の予防接種歴が裏付けられます。
予防接種法改正の経緯
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000000s2dr-att/2r9852000000s2kz.pdf
昭和23年の予防接種法では、痘そう、ジフテリア、腸チフス、パラチフス、百日咳、結核が定期接種とされていた。
昭和36年にポリオが定期接種に加えられた。
昭和45年に腸チフス、パラチフスが定期接種から外された。
昭和52年麻しんが定期接種に加えられた。
昭和53年風疹が定期接種に加えられた。
平成6年に日本脳炎が定期接種に加えられた。

下の図をみるとすごいですね。コレラ、ペストのワクチンがあったのですね。
歴史的に仕方がない部分がありますが、結構行き当たりばったり、いい加減です。
このようなワクチンは、病原菌を培養して、フォルマリン処理して、精製して出来上がり。
何か○○○部隊を思い出します。

腸チフス、パラチフス、発疹チフス、ペスト、コレラ、しょう紅熱、ワイル病のワクチンが効くはずがありません。
このように考える根拠は、免疫抗体は毒素のような分子量の小さいものに有効である、
しかし、細菌のように、巨大で複雑、さらに多数の表面構造組成をもっているものには効かない(できない)、という原則があるようにおもうからです。

種痘(痘そうの生ワクチン)はワクチンとしては効くとおもいます。WHOはワクチンで痘瘡を撲滅させらえたと言いますが、私はそうは思いません。痘そうは栄養、自然環境がよくなって消えたのです。種痘は副反応が多かったので止めざるをえなかったのです。
ヒトには病原性が弱いといても牛には痘瘡をつくる生きたウイルスを、皮膚に傷をつけてしっかり入れるのです。怖いワクチンだったと思います。

私の育った地域では、たまにワイル病の方が出たことはあったようです。
私がワイル病のワクチンをされたかどうかは記憶がありません。
お年寄りの患者さんから聴いても、この地域で感染症がはやった、人が死んだ、ということはなかったようです。

予防接種1.png予防接種2.png













予防接種3.png













私の場合、確実に言える事は、はしか、水痘、風疹、3種混合(ジフテリア、破傷風、百日せき)のワクチン接種はしていない、という事です。
田んぼや小川に裸足で入り、小魚を取って遊んでおりました。夏は濁った川で泳いでいました。破傷風になった同級生はいませんでした。
小学校に上がる前、ちょうど田植えの頃、麻疹にかかって家で休んでいたことを覚えています。
小学校に上がる前、インフルエンザにかかり、入浴のあとふらふらして、失神しそうになったのを覚えています。
小学生の高学年もインフルエンザにかかり、朝礼で失神しそうになるのをこらえていた事を覚えています。結局前の友達の肩に掴まりました。
これも小学生の高学年だった記憶していますが、おたふくかぜにかかりで、食物を口にいれると、耳下腺がキュッと痛くなったのを記憶しています。

小学生(3クラス150人)、中学(5クラス240人)の同級生、さらには上下の学年で、はしか肺炎、SSPE、インフルエンザで死亡した者は誰もいなかった、と思います。
2つ上の学年に、小児麻痺のため、車いすで通学なさっていた方が1人おられました。
小学生の上級生のころだったと思いますが、日本のどこかで小児麻痺が流行って、「鉄の肺」とか、ワクチンが輸入されたとかいうことを、新聞、ラジオのニュースで聞いたのを覚えています。
私は記憶がないのですが、同級生の話だとポリオワクチンを飲まされたようです。

成人になってからワクチンを注射したのは、B型肝炎ウイルスワクチンのみです。
最近、どうなっているかと思って、B型肝炎ウイルスに対する抗体(HBs-抗体、HBc-抗体)が出来ているかどうか調べました。
ゼロレベルでした。効果は完全に消失している、ということです。

インフルエンザワクチンは一度も注射したことがありません。「効かない」、と考えているからです。
開業してから20年になりますが、インフルエンザにかかったことは無いようです。
いわゆる風邪、上気道炎は年に2~3回かかります。
下痢をおこす風邪にも今まで2、3回かかった記憶があります。
(H24年にもかかり、下痢が5日ほど続きました。)

上の「予防接種法の経緯(3)」を見ますと、平成5年(1993)に、「一般的な臨時接種として接種していたインフルエンザについては、社会全体の流行を阻止するデータは十分にないと判断された」とあり、義務接種からはずされました。
しかし、いまでも、厚労省はワクチン接種を推奨するような事を言って、接種を煽っています。

不活化ワクチンの効果は消失する

私が東北大学医療技術短期大学部の助教授をやっていた20+α年前、実習でのB型肝炎ウイルス感染予防対策に、B型ウイルス肝炎予防ワクチンを注射させられました。教員全員です。
商品名は忘れましたが、1月間隔と半年後で計3回注射して、抗体価も調べたように記憶しています。随分昔の話ですから、そのときの抗体価を記憶しているはずがなく、資料もありません。

どうなっているか今年になって調べてみました。
ごらんのとおり、抗体価はゼロレベルです。
この20年間、針刺し事故は1回くらいありましたが、B型肝炎の患者さんではありませんでした。
人間の体は、免疫システムですら、不要なものは捨てるのだと思います。

B型ウイルス肝炎ワクチンは不活化ワクチンです。一般に不活化ワクチンは抗体価の減弱が早いものです。
ヒトパピローマウイルス感染予防ワクチンと呼ばれている、サーバリックス、ガーダシルも不活化ワクチンです。
これらのワクチンでは、抗体価を高めるため、アジュバントが加えてあります。
B型肝炎ウイルス感染予防ワクチンにはアジュバントは入っていません。
痛くなかったのを覚えています。
アジュバントで痛い思いをさせても、抗体価が下がるのは防げないでしょう。
それは、体のもつ「論理」ですから。




本吉、気仙沼、陸前高田の被害を見てまいりました。

6月5日、午前11時頃古川を出発して、本吉にむかいました。
偶然本吉病院の前に出ました。病院は2メートルくらい水没したようです。海岸線から2km、病院の前は高台となっていて、全く海の見えない場所に立地しております。写真は病院の玄関の裏手(西側)の津波被害の様子です。左手に津谷川があり、津波は堤防を越えて入ってきたと思います。
大川小学校の場合もそうですが、津波は激しい勢いで川を遡上し、堤防を決壊させおおきな被害をもたらしました。



気仙沼に入りましたが、曙橋を渡り、内の脇あたりに出ました。地盤沈下が目立ち、住めないな、という印象をもちました。


魚市場近辺を見て魚浜町に出て、5号線に乗って陸前高田をめざしました。ナビを使っていたのですが道がわからなくなりました。魚浜町で、5号線に大きな漁船が道に乗り上げ、道は壊滅状態で通れないためでした。浜町を通る迂回路に気がつくまで、同じところをぐるぐる回ってしまいました。


45号線を通って陸前高田市に入りました。気仙大橋のほとりに出ましたが、橋が流されてありません。ひとつ上流の姉歯橋も流されていました。気仙川右岸の、対面通行できない狭い道を走りぬけ(スラローム走行とか)、越戸内(おっとない)踏切で今泉街道に出ました。ちょうどここで大船渡線の線路がなくなっていました。ここよりさらに上流まで津波が押し寄せて来ていたわけです。

340号線を海に向かって、海岸線より2Kmの大船渡線の跨線橋より陸前高田市が一望できますが、公立高田病院、ホテルなどコンクリート造りの大きな建物以外はすべて破壊され流されています。民家は全く見当たらない、すさまじい被害(破壊)です。



(帰路に、中川原跨線橋より海岸の方を望んだもの。遠くの建物は高田病院とおもいます。)



(中川原町跨線橋の様子。帰路に、上の写真を撮る為、跨線橋の中央で車道左側ギリギリに停めたときにパンクしたかもしれません。手前側に約500m下りたところでレッカー車を待っていました。松の木が見えますが、高田松原から運ばれて来たものでしょう。)

夕方5時になり、帰途につきました。、跨線橋を下ったあたりで、タイヤのパンクに気づきました。すでに、タイヤサイドが激しく痛んでおり、スペアタイヤもジャッキアップセットも積んでなかったため万事休す、でした。車の会社のサービスに頼んでレッカー車を派遣してもらいました。

車の中でレッカー車の到着を待っておりましたが、日が暮れても、あたりには家の光は全くありません。真っ暗闇でした。時折通る車のヘッドライトのみ。
レッカー車が到着したのは午後8時ごろ。出発したのが8時半。診療所についたのが11時半でした。走行距離は118Kmでした。
次、被災地に行くときは、ジャッキアップセットと冬タイヤ1本を積んでいきます。

夕暮れ、跨線橋の上より市街地を眺めていたとき、皆さん、どうしてらっしゃるのだろうと思いました。
避難所の不自由な生活に耐えてらっしゃるはずです。
一日でも早く楽な生活になることを祈っております。

下の写真は気仙沼より陸前高田に入って、気仙中学校の近くから撮ったものです。
1本松が写っています。
津波の前は松林が見えたのでしょうね。

takata_matu.JPG

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